翻訳と辞書
Words near each other
・ 市川船橋戦争
・ 市川良子
・ 市川芝喜蔵
・ 市川苑実
・ 市川若三郎
・ 市川英子
・ 市川茂々太郎
・ 市川荒五郎
・ 市川荒五郎 (4代目)
・ 市川荒太郎
市川荒太郎 (2代目)
・ 市川荒太郎 (3代目)
・ 市川荒次郎
・ 市川荒次郎 (2代目)
・ 市川荒次郎 (初代)
・ 市川莚十郎
・ 市川莚升
・ 市川莚升 (2代目)
・ 市川莚升 (3代目)
・ 市川莚升 (初代)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

市川荒太郎 (2代目) : ミニ英和和英辞書
市川荒太郎 (2代目)[にだいめ いちかわ あらたろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [し]
  1. (n-suf) city 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [め, もく]
 【名詞】 1. (1) item 2. division 3. class 4. (2) piece (in Go)

市川荒太郎 (2代目) : ウィキペディア日本語版
市川荒太郎 (2代目)[にだいめ いちかわ あらたろう]

二代目 市川 荒太郎(にだいめ いちかわ あらたろう、1892年11月23日 - 1925年12月5日)は、日本の俳優歌舞伎役者、元子役である〔高沢, p.19.〕〔名鑑, p.3.〕〔泉沢, p.9-11.〕〔''市川荒太郎''、''jlogos.com'', エア、2013年7月1日閲覧。〕〔''市川荒太郎''日本映画データベース、2013年7月1日閲覧。〕〔''市川荒太郎''、日本映画情報システム、文化庁、2013年7月1日閲覧。〕〔''市川荒太郎''allcinema, 2013年7月1日閲覧。〕。本名市川 保之助(いちかわ やすのすけ)〔〔、旧芸名市川 保太郎(いちかわ やすたろう)〔〔。サイレント映画の時代、映画界に招かれて主演した剣戟スター「市川荒太郎」は、荒太郎三代のうち、この人物を指す〔〔。
== 人物・来歴 ==
1892年明治25年)11月23日大阪府大阪市西区新町南通3丁目28番地(現在の同府同市同区新町)に生まれる〔〔〔〔。父(養父)は先代の初代荒太郎であった四代目市川荒五郎(1861年 – 1930年〔、2013年7月1日閲覧。〕)〔〔、弟は映画俳優市川玉太郎として知られる初代荒太郎の長男、のちの三代目市川荒太郎(1912年 – 1948年)である〔国立, p.560.〕。本名については、初期文献である『人気役者の戸籍調べ』(1919年)には「市川浩三」と記されている〔。
幼少のころから芸道を学び、数え年6歳になった1897年(明治30年)、大阪・弁天座での『鈴木主水』に出演し、主演の四代目嵐璃珏の息子磯松役を演じ、「市川 保太郎」の名で初舞台を踏む〔〔〔。以降、父・荒太郎に従って弁天座で引き続き修業したが、数え年12歳になる1903年(明治36年)に一度、引退を考える〔。しかしながら、父・荒太郎が1906年(明治39年)9月に四代目市川荒五郎を襲名〔、数え年16歳になった1907年(明治40年)9月、弁天座で七代目市川團藏、四代目嵐璃珏、嵐巌笑、四代目片岡我童(のちの十二代目片岡仁左衛門)、六代目嵐吉三郎らの一座において、『妙心寺』の初菊役を務め、このとき、二代目 市川 荒太郎を襲名した〔〔〔。日本舞踊については、若柳吉左衛門楳茂登扇性に学んだという〔。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』によれば、同年当時は大阪市南区天王寺北山町5460番地(現在の同市天王寺区上之宮町)に妻や使用人たちと住み、定期的に出演していた劇場は大阪・角座であった〔。崇拝するものはとの問いに、ナポレオン・ボナパルト石川五右衛門、と答えた〔。同年、林誠之助が荒太郎に入門している〔キネマ旬報社, p.467.〕。
1924年(大正13年)2月25日、弟子の林誠之助らとともに松竹キネマに入社、下加茂撮影所に所属する〔〔。同撮影所はヘンリー小谷も同時期に招き、荒太郎・東愛子夫妻をキャスティングして『黒法師』を製作、同年4月23日に公開したが、単純な活劇と評価され、興行的には振るわなかった〔〔田中, p.62.〕。同年7月、松竹蒲田撮影所から所長の野村芳亭らが現れ、下加茂の改革を行った〔。荒太郎は同年末、同社を退社、弟子の林誠之助は蒲田に異動している〔。『裸にした映画女優』によれば、「愛妻の愛子と離れては絶対に芝居が出來ない」と発言していたといい、「近代人なる哉」と評されている〔。
松竹退社の1年後にあたる、1925年(大正14年)12月5日、死去した〔。満33歳没。
日本映画データベースによれば、二代目没後1926年(大正15年)に、帝国キネマ演芸小坂撮影所で「市川荒太郎」の出演記録があるが〔、これは生前に撮影されていたものか、詳細は不明である。市川玉太郎が三代目市川荒太郎を襲名したのは、1941年(昭和16年)2月のことである〔。2013年(平成25年)4月、二代目が出演した『千本桜・すし屋』を収録したCD『歌舞伎名優名場面集 SP原盤復元 4』が、日本コロムビアから発売された〔歌舞伎名優名場面集 SP原盤復元 4 国立国会図書館、2013年7月1日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「市川荒太郎 (2代目)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.